聖書のみことば
2022年7月
  7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月31日主日礼拝音声

 死から生へ
2022年7月第5主日礼拝 7月31日 
 
宍戸 達教師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第9章57〜62節

<57節>一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。<58節>イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」<59節>そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。<60節>イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」<61節>また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」<62節>イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 今読みました聖書の中の60節に「イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい』」とあります。福音書の中には、それを聞かされて思わず「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられるだろう」という気持ちにさせられてしまう主イエスの言葉が時々出て参ります。
 今お読みしたのも、またそのような類の言葉の一つではないかと思います。主イエスがある人に向かって「わたしに従いなさい」と呼びかけられます。その人は、是非そうしたいと思います。しかしちょうどその時、ある差し支えになる出来事が起こっていて、それを果たさずに従って行くわけにはいきません。それでやむを得ず、主イエスに願い出ます。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」。すると、それに対して主イエスは仰せになります。それが60節の言葉です。「イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい』」、何というお言葉なのでしょうか。どうして主イエスはこの時、この人に向けてこのように言われるのでしょうか。主イエスはその人といつどのようにして出会われたのでしょうか。そしてどういう経緯があってこういう言葉を口になさるのでしょうか。おおよそ、そのような詳しいことについて、ここには何も書かれていません。それだけでなく、主イエスがそのように言われた後、その相手の人物がどのように行動したのか、それについて、何も述べられていません。
 普通ルポルタージュの記者なら、いかにも興味を抱きそうな細かなことは、この福音書を書き記した人にはどうでもよいことのようです。それよりも、この福音書をまとめた人は、このような、言わば実にひどい話を聞かされて、それに対して私たちならどのように反応するか、そのことを問題にしているようです。
 それなら私たちも、今日この言葉を巡って、しばらくご一緒に考えたいのです。

 まずここには、「死者を葬る」ということが述べられています。私たちの国では仏教の影響を受けて、死者に対する葬りや追悼の行事が大変盛んに行われます。けれども、こういう事柄を重んじるのは、別に私たちの国だけに限ったことではありません。かつてキリスト教世界と呼ばれたヨーロッパでも、似たようなところがあります。
 キリスト教世界には古くから、一年の教会行事を定めたいわゆる「教会歴」、つまり教会特有のカレンダーがあります。これは普通の暦と違って、その年の12月25日、つまりクリスマスがやって来るその週の日曜日から数えて4週間前から始まります。待降節、つまりアドベントと呼ばれる期間です。ですから、教会歴の終わりは普通の暦で言いますと11月のどこかの日曜日に当たります。
 そして、カトリック教会やプロテスタント教会の一部では、その教会暦の最後の日曜日を「死者の日曜日、死んだ人の日曜日」と呼んで、その日は特に永眠者を記念する礼拝を行います。そして礼拝を済ませた後には、教会墓地に出かけて行って、墓の周りを整理して綺麗にし、また古い墓については、それが誰の墓でありその墓に眠っている人がどういう人であったのかを、若い世代の人たちに語って聞かせるという習わしがあります。こういう習わしがあることは、それなりに好ましく麗しいことです。それは心からの敬虔な思いの表れです。亡くなった人を丁寧に葬るということは、古い時代には、決して冒してならない掟なのでした。亡骸を野ざらしにしたまま獣や猛禽類の餌食にすることは、この上ない侮辱であり、粗野で野蛮な振る舞いとみなされました。

 しかし、死者に対するこのように慎み深い態度というものは、本を正すと死者に対する恐れと結びついていたのです。亡くなった人が生きている人たちの領域からきちんと取り除かれるのでないと、死んだ人は生きている人に災いを及ぼすかもしれないという不安がありました。そういう不安が元になって、盛大に葬儀を営むというようになったのです。
 けれども、元々はそのように暗い不安から始まったものでありましても、それは後には、愛情から行われるものへと変わって行きました。それは次第に、生きている人たちが亡くなった人に対して示す最後の愛情の印というふうに変わっていきました。私たち自身、家の墓のある所に行って墓の掃除をする時、それはまさに亡くなった人を愛する気持ちからそうするのではないでしょうか。
 そういうわけで、私たちの国のお彼岸とか、ヨーロッパの死者の日曜日とかいう行事は、私たちの深い生活感情に根を下ろしています。それは、何もかもを未来永劫の彼方へ運び去ってしまう、忘却の洪水に歯止めを掛けるダムのようなものです。私たちは本当に忘れることの速やかな者たちです。いつまでも覚えていなくてはならない人々の名前でも、ほどなく色褪せたものにしてしまいます。お彼岸とか死者の日曜日とか永眠者の日とか、そういう日を設けて、既に世を去った人々のことを一緒に思い起こし、またそのようにして既に世を去った人々のことを、直接には知らない若い世代の人たちに語り継ぐということは、確かに麗しいことです。また好ましいことに違いありません。そういう人々の記念の印である墓を大切に管理し丁寧に手入れすることは、ごく自然であり、いかにも人の情けに適っています。

 ところで、まさにそのような敬虔な思いに対して、主イエスはここで厳しい言葉を差し向けられます。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」、本当にショックを受ける言葉です。
 けれども、一体ここで「自分たちの死者を葬る、死んでいる者たち」というのは、誰のことを指してそのように言われているのでしょうか。
 この場合、「父を葬りに行かせてください」と先に願われていたのですから、「葬られる死者」というのは亡くなった父親を指していることがすぐ分かります。それでは、その亡くなった父親を葬る「死んでいる者たち」というのは誰のことでしょうか。言うまでもなくそれは、「どうしても弔いを出さなくては」と拘る人たちのことです。つまり主イエスは、一種の風刺をきかせて、現に生きている、ある人たちのことを指してこのように語られます。
 はっきり言いますと、「自分はまだ死んではいない。呼吸をし働き、子供をもうけて養っており、またこの世の様々な事柄に携わっている。自分は生きている」と思っている、そういう人々を指して、主イエスは敢えて、「死んでいる者たち」と語られます。そういう人々について、こういう厳しい言葉を差し向けられます。
 そしてこのように語りながら、主イエスは、私たちに考えさせてくださるのです。「あなたがたは今、生きていると思っているけれど、ひょっとすると、あなたがたの生活は見せかけの人生になっていないだろうか。あなたがたは、その思うところ行うところ、死の餌食になっているようなことはないだろうか。『亡くなった』とあなたがたが考えている人たちとあなたがたとの間は、一体どれほどの違いがあるのだろうか。あなたがたは死者を盛大に葬ったり、その墓を丁寧に飾ったりしているけれど、ひょっとするとあなたがたも、そういう亡くなった人たちと同じように、死の勢力の手の内に捕らえられているのではないだろうか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であられることを、よくよく思い起こすことが大事ではないだろうか」。主イエスはそのようなことを考えながら、このところで「死者を葬る、信じる者たち」という言葉を語っておられます。
 神の国は納骨堂や納骨室で満ちているのではありません。神が支配しておられるということを、別に言えば、「いつも命が死を押さえ込んでいる」ということに他なりません。「死に対して、いつも命が勝利している」ということに他なりません。神御自身にとっては、墓というものは、死んだ種から命の実りを刈り取る、神の畑です。そのことをこそ、私たちは心に深く留めたいのです。

 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」、この厳しい言葉は主イエスのお言葉です。そして、これが主イエスのお言葉であるということが、今の場合とても大事なところです。もしもこの言葉が主イエス以外の人の口から出たのなら、それはとても聞くに耐えない傲慢な言葉となります。その時それは、真に心ない、憐れみを知らない者の野蛮な言葉になってしまいます。その時それは、自分たち生きている者は死んだ人々によって少しも煩わされはしない、死人は死人に任せておけばよいといったような、投げやりで享楽的なものの言いようになってしまいます。
 主イエスがこの言葉を語られる時、それは主イエスのもう一つ別の言葉と深く結ばれながら語られています。つまり、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」というお言葉です。ヨハネによる福音書14章19節に出てきます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と言いますのは、ここでは地上の過ぎゆく生活領域の中で言われる命ということが考えられているのではなくて、主イエス御自身が、その身をかけて贈り物にしてくださった「朽ちることのない、とこしえの命」のことが考えられているのです。
 こういう命に関わるということは、いわゆる敬虔な気持ちとか信心とかいうのとは別のものです。それ以上のものです。主イエスの厳しい言葉は、私たちを死の領域から引き離して、真の命のレールの上に置こうとなさる、大きな愛から出ているお言葉です。それは、主イエスがヤイロの死んだ娘の手を取って、「少女よ、さあ起きなさい」と仰せになったのと同じ意味の言葉です。またラザロの墓に近寄って、「ラザロよ、出てきなさい」とお命じになったのと同じ力強いお言葉です。

 60節の言葉は、私たちがまどろみ死んだような状態から抜け出せないでいる時には、実にひどい話だと感じられます。主イエスによって招き入れられており、真の命の領域に入るよりも、この世の見せかけの命の領域に留まっていたいと思う人には、厳しい言葉として響きます。「復活の命を生きるようにしなさい」という呼びかけに対して、私たちが本当に復活の命を信じて生きるということよりも、墓を飾って手入れしていることの方がとても気楽なことなのです。
 しかし私たちは、そのようなことよりも、主イエス御自身によって与えられている、死の勢力を超えた真の朽ちることのない「とこしえの命」に生きる、そういう信仰に生かされるということの方が本来的なのだということに気付かなくてはなりません。

 このように考えて参りますと、当然、死者の日曜日とか或いはそういう類の日をどういう仕方で守ったらよいのかということが分かって参ります。元々死者の日曜日という言い方そのものが矛盾した内容を持っています。日曜日というのは、一週間毎に訪れる主の復活の祝日に他なりません。主の日というのは、死者の日のことではありません。それは生命と復活の日です。私たちは、主イエスの言葉がどんなに厳しく聞こえましょうとも、それが主の愛と命と希望の言葉であることを思い起こさなくてはなりません。

 60節の後半には、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と語られます。「神の国を言い広める」ということは、何かそれについて神学的に論じたり、徳を立てるような話を聞かせるということではありません。そうではなくて、私たちがこの死の支配する世界にあって、復活の証人として生きて行くということです。別に言えば、過ぎ去るものに心をかけたり、過ぎゆく命を愛したりしないで、主イエスの支配とその来るべき御国に心を寄せるということです。そのように生きるとき、私たちが亡くなった人たちのことを忘れたり、召された人たちについて、なすべきことを怠ったりするようになるのではないかと心配することはありません。実際はその逆です。召された人たちは、既にこの地上の領域から取り去られています。召された人たちは既に、私たちの全く知らない別の領域へと通う道の途上に置かれています。
 それなのに、私たちはその敬虔な気持ちのせいで、却って、そういう人々を既に取り去られたはずのこの領域に留めて置こうとしがちなのです。私たちは、召された人たちのために、その人たちが永遠の平安と永遠の光を灯すことのできる新しい道に置かれ続けるように祈ることができます。祈らなくてはなりません。そしてそのことが、まさに「神の国を思う」ということです。「神の支配を確認する」ということです。神の国は、地上で私たちがあれこれと心遣いする以上に、遥かに大きく広いのです。むしろ私たちは、召された人たちを通して、私たちもまた来るべき世界という真の現実へと召される呼びかけを聞き取りたいのです。

 主イエスの言葉は、本当に厳しい言葉なのでしょうか。けれども憐れみから出る厳しさというものもあります。一人の人を本当に危険から守るためには、時には敢えて厳しい態度を取ることも必要です。私たちキリスト者にも、敢えて死から命へと飛躍するということがなければ救いはありません。私たちは、今このままの状態で「ただ居る」というのではなく、主イエスによって先立たれておる、永遠の命に生かされるのだという、その命への飛躍をしていかなくてはならないのです。それが、私たちが復活の信仰を持ち続けるということです。
 そういうことがなければ、真の救いはありません。暗闇のようなこの世の中で、私たちは主の呼びかけを聞きたいのです。「少女よ、起きなさい。ラザロよ、出てきなさい」。

 最後に、旧約聖書にある詩編16編の中の言葉をお読みして終わりたいと思います。詩編16編8節から11節、そこにはこのように書かれています。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」。

祈ります。
 聖なる御神。兄妹姉妹と共に、新しい日曜日を再び祝うことを許されました。このような日が一週間の初めの日として与えられておりますことを心から感謝いたします。もともと御神を知らず、この地上にあって定められた時を過ごし、ただ失われていくだけの私たちでした。しかし今、御子イエスの導きと聖霊の執りなしにより、私たちは、この地上の営みが地上を超えて、新しい命の道へと通うものであることを知らされます。どうぞ私たちの信仰を励まし、備えられている永遠の命を喜び祝うものとさせて下さい。この願いと感謝、主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン

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